間違っているのはどちらか
孤立と先見、そして現実という共同の試しについて
2026年7月20日
I. 一つの文
その文はたいてい善意から、ときには愛情からさえ口にされる。長いあいだ一人で、自分の仕事に没頭してきた人に向かって、近しい誰かがこう言う。
「そんなに長いあいだ一人でいると、人は空想を始める。君は大げさだ。」
言う側に悪気はない。たいていは本気で心配している。聞く側は何かを感じるが、すぐにはその名を言えない。文には正しい部分と誤った部分があり、その二つがあまりに固く織り合わさっているために、切り分けられず、答えられない。会話はそこで終わる。双方とも、自分が正しかったと信じて立ち去る。
本稿はその文の中身を開く。
この文を、一人の人間の問題としてではなく、繰り返し現れる語りの型として受け取る。長い時間を一人で働く者は誰でも、何らかの形でそれを耳にする。作家、研究者、創業者、作曲家、論文を書く学生、何年も同じ問いのまわりを回りつづけている者なら誰でも。問いはこうである。孤立は、人の現実の知覚と、未来への先見を、実際にどう左右するのか。そして、それを測れる立場にいるのは誰なのか。
II. 一つの息に二つの主張
文の単純さは人を欺く。その中には、論理的に互いに独立した二つの主張が含まれている。
第一は因果的である。孤立は現実からの乖離を引き起こす。これは孤立についての主張であり、経験的に検証できる。
第二は認識的である。君の予期は現実的でない。これは特定の予測についての主張であり、その予測が何についてのものかを知る者だけが論じうる。
二つの主張は切り分けられる。一方が真で、他方が偽でありうる。現実の把握がそっくり保たれたまま孤立している者が、それでいて非常に貧しい予測を下すこともある。あるいは、現実感覚がひどく乱れた者が、たまたま正しいこともある。
判断がこの二つを一息に融かすとき、それがしているのはこうである。第一を証拠として用い、第二を証明なしに通してしまう。「君は孤立している」という観察が、「だから君は間違っている」という結論への橋になる。だが橋の下には何もない。
本稿の第一の一手は、その切り分けである。第二はこうだ。切り分けたうえで、両方の主張を真剣に受け取ること。どちらも、ときに正しいからである。
III. 同じ建築、二つの生
孤立が何をするのかを理解したい者にとって、歴史は奇妙な偶然を秘めている。
十九世紀、アメリカの監獄で独房が広まったとき、その独房の建築上の手本はすでに手元にあった。その手本は修道院だった。囚人は自らの良心と二人きりにされれば悔恨を覚え、内へと向き直って清められるだろうと考えられた。実際、刑の執行される独房は修道院の独房を手本として造られた(Storr, 1988)。意図は善かった。結果は破滅的だった。監獄当局はほどなく、隔離が囚人に耐えがたい圧をかけ、精神の不安定と暴力的な発作を生むことを見てとった。
ここで立ち止まる価値がある。同じ部屋。同じ寸法。同じ静けさ。同じ時間数。一方には、人が何世紀ものあいだ、より深くへ行くために自ら進んで入ってきた独房。他方には、人を解体する独房。
これは本稿の議論のすべてを一つの像にまとめる。孤立は結果ではなく、条件である。結果を決めるのは条件そのものではなく、そこから結果へと走る鎖である。これからその鎖の環を一つずつ見ていく。だがまず、二つの片づけごとがある。一つは言語が仕掛ける罠について、もう一つはその罠がいつ仕掛けられたかについてである。
IV. 孤独感はいつ発明されたか
1719年、一つの小説が刊行された。その主人公は、無人島で二十八年ものあいだ一人で暮らした。
『ロビンソン・クルーソー』の物語には、今日われわれが与えている感情的な意味での「寂しい」あるいは「孤独」という語が、ただの一度も現れない。クルーソーは一人きりでありながら、自らをどこでも孤独だとは記さない(Alberti, 2019)。今日の読者にとって、これはほとんど理解しがたい欠落である。二十八年、無人の島、そして本文の中心に孤独感がない。
その欠落は著者の見落としではなかった。当時、そのような概念が手元になかったのである。
十六世紀と十七世紀において、「孤独」は今日のようなイデオロギー的・心理的な重みを担ってはいなかった。その語は単に一人でいる状態を意味した。精神的でも感情的でもなく、物理的な状態だった。トマス・ブラントの『用語辞典(Glossographia)』は1656年に初版が出たが、その1661年版は loneliness を「一つであること、一者性ないし孤独、単一ないし単一性(an one; an oneliness, or loneliness, a single or singleness)」と定義していた。1676年にはイライシャ・コールズがそれを「孤独(solitude)」あるいは「一人でさまようこと(wandering alone)」と与えており、近代的な否定的感情の含みはいっさいなかった。サミュエル・ジョンソンの1755年の『辞典』でさえ、形容詞 lonely を、ただ一人でいる状態(「lonely fox(孤独な狐)」)か、うち捨てられた場所(「lonely rocks(人けのない岩)」)としてのみ記述していた。その語は、必然的な感情の負荷を何も担っていなかった(Alberti, 2019)。
今日われわれが用いる意味での孤独感は、十八世紀の終わりまで、印刷された文章にはほとんど現れない。用法は1800年ごろから増えはじめ、二十世紀の終わりに頂点に達する。歴史的な主張はこうである。近代的な孤独感は、共同体に対して個人が前面に出た時代の産物であり、およそ二百年の齢を持つ(Alberti, 2019)。
この主張は一人の歴史家の意見ではない。社会的孤立という意味でのほぼ全面的に否定的な孤独感の概念が、十八世紀末から十九世紀初頭の発明であったということは、感情史の分野が説得力のあるものと認めてきた説である。同じ時代を孤独(solitude)の側から読む別の歴史研究も、それを補うものとみなされている(Rydberg, 2021)。
とはいえ、一つ留保が要る。この種の歴史には限界があるからだ。概念の不在は経験の不在を意味しない。そしてこれらの研究も、そうは主張しない。1780年代に孤独についての包括的な論考を著した医師の手には、その語が今日の重みを得る前から、主題を存分に論じるための豊かな枠組みがすでにあった(Zimmermann, 1784)。変わったのは人が一人でいたことではない。一人でいることが何を意味するかについて、文化が与えた答えである。
ここでは細心の注意が要る。この知見はたやすく誤用されるからだ。
これは、孤立の影響が作りごとだという意味ではない。これから入っていく独房で、人々は実際に解体した。彼らが生きたものは文化的な構築物ではなかった。歴史的になったのは孤立の影響ではなく、孤立に付された意味である。「一人でいることは人を損なう」という文と、「一人で生きることは欠陥である」という文は、同じ平面に立たない。前者は経験的な主張であり、検証できる。後者は道徳的な判断であり、二百年前の文化的枠組みから出てくる。
冒頭の文はこの両方を一度に担う。だからこそ、それは議論に開かれていると同時に、人を傷つける。
さて、二つめの片づけごとである。英語では、そして状況はトルコ語でも同じだが、一つの語が二つの異なる現象を覆っている。選ばれ、求められ、実りある孤独(solitude)と、望まれず、痛みを与える孤独感(loneliness)とが、同じ語に押し込められている(Long & Averill, 2003)。日本語もこの点で変わらない。「孤独」という一語が、その両方を指しうる。そこで本稿では、感情としてのそれを「孤独感」、状態としてのそれを「孤独」と呼び分ける。両者のあいだには構造的な違いがあるからだ。孤独感は感情であり、孤独は状態である。孤独感は特定の欲求、感情、注意の型を含む。孤独は、あらゆる感情と思考に開かれた、それ自体は感情ではない状態である(Koch, 1994)。一方は人の身に起こり、他方は人がそこに置かれている場所である。
この区別のもっとも堅固な経験的裏づけは、五十年前になされ、いまも揺らいでいない。
その枠組みにおいて、孤独感は、一人でいることにではなく、関係の欠損に対する反応である。しかもそれは単一のものではない。親密な情緒的結びつきの欠如から生じる孤独感と、心を引きつける社会的ネットワークの欠如から生じる孤独感とは、異なる症状を帯び、異なる手当てに応じる(Weiss, 1973)。
二つの観察が、これを証拠へと変える。
第一は、配偶者を亡くした、あるいは別れた人々が作る互助組織のなかに、繰り返し見られる。新しい会員は、孤独感ゆえに加わり、会員であることがそれを癒やすことを望む。なかで新しい友情を結び、役割を引き受ける。だが、一つの濃い関係を結ばないかぎり、孤独感は残りつづける。友の群れは、失われた結びつきの代わりにはならない。
第二は、逆の方向から来る。別の州からボストン地域へ移り住んだ夫婦を扱った研究で、女性たちは「新参者の悲しみ」と呼ばれる時期を通り抜けた。結婚がどれほど親密であろうと、夫は助けにならなかった。結婚に満ち足りた女性でさえ、自分の関心を分かち合える輪に接することができないために、痛いほど孤独感にさいなまれた。彼女の孤独感が終わったのは、受け入れられる共同体を見いだしたときだけだった(Weiss, 1973)。
二つの観察を併せて読むと、鋭い結論が出てくる。そばに人がいることは孤独感を癒やすのに足りず、そばに誰もいないことがそれを保証するわけでもない。同じ枠組みでもっとも際立った症状はこうである。情緒的な孤独感を経験している人は、他者の付き合いが実際には手に入るときでさえ、まったくの独りだと感じることがある(Weiss, 1973)。
これが判断に対して持つ含みは大きい。外から見る者は物理的な独りを見る。見えるのがそれだからだ。内にいる者は、まったく別のものを生きているかもしれない。よりよいものも、より悪いものも。
つまり、冒頭の文が依って立つ観察は、見かけほど堅固な地盤ではない。それを口にする者は何かを見ている。だが、見たものと判じたものとのあいだの結びつきは、その人が思うよりも弱い。
V. 独房のなかの男の問い
1979年、マサチューセッツのある監獄の隔離棟で扉が閉じた。八月、外側の鉄扉が閉ざされ、独房から私物が取り上げられた。ラジオ、テレビ、聖書を除くすべての読み物である。囚人たちは訴えを起こした。裁判所の命令により、二人の精神科医が十四人の囚人に、それぞれおよそ三十分ずつ面接した。隔離の期間の中央値は二か月だった(Grassian, 1983)。
面接の条件は敵対的だった。看守が扉のすぐ外に立っていたため、数人の囚人は聞かれまいと小声で話した。
ここで注意が要る。これから続くのが、本稿でもっとも重要な一節だからである。
訴訟が進行していた。囚人たちは、訴えを強めるために症状を誇張すると予想されるだろう。そうはならなかった。研究者が報告するのは正反対のことである。囚人たちは、合理化、回避、否認、抑圧といった防衛を動員して、自らの反応の激しさを小さく見せようとした。面接はこのような文で始まった。
「独房なんて平気だ。」
「参ってしまう奴もいるが、俺は違う。」
ある囚人は、自らの症状を口にしながら、同じ息でそれを取るに足りないものにした。
「入ってすぐ、手首を切りはじめた。ここから出る唯一の手立てだと思ったんだ。」
精神科医たちは、情報を引き出すために、安心させるために、繰り返し突き合わせてこれらの語りの隙間を開くために、押し進めなければならなかった。何ごともないふうの表面の語りが崩れると、その下から別のものが出てきた。「耐えられる」と言った囚人は、やがて、パニック、窒息の恐れ、パラノイア的な歪みを語った。
彼らの抵抗には理由があった。看守に復讐の空想を見つけられることを恐れていた。あるいは、看守が付け込める弱みを見てとることを。いくつかの事例では、恐れの源は別だった。囚人は、自分が実際に正気を失いつつあると思っており、それを口にするのを恐れていた。
この知見を心にとどめておいてほしい。あとで戻ってくる。
彼らが語ったのはこうだった。
音が耐えがたくなっていた。
「音に敏感になる。配管だ。上の階の誰かが蛇口のボタンを押すと、水が管を走る。うるさすぎて、神経に障る。耐えられない、わめきはじめる。あいつら、わざとやっているのか。」
「何もかもが大げさに思えてくる。しばらくすると、耐えられなくなる。食事だ。前は出されたものは何でも食べた。いまは匂いに耐えられない、肉に。食べられるのはパンだけだ。」
「本当に気が変になりそうなのは、蜂が独房に入ってきたときだ。あんな小さなものに。」
視覚が損なわれていた。
「独房の壁が波打ちはじめる。」
「溶けていく。独房の中の何もかもが動きはじめ、何もかもが暗くなり、視力を失っていくように感じる。」
ある者は朝食の盆を語った。
「盆を四つ持ってやって来る。最初のには大きなパンケーキがのっていて、それがもらえると思う。すると誰かが来て、小さなやつをよこす。本当に小さくなる、銀貨みたいに。目の前で動きが見える気がする、すごく速い動きが。それから、背中の後ろで何かをやっているように思える、よく見えない。今、誰かに殴られたか。何時間もそれを考えつづける。」
同じ囚人は、独房のなかに、輪縄を手にした看守を見た。
記憶が失われつつあった。
「一度、心理的に停止した、記憶の途切れだ。十五日間しゃべらなかった。はっきり聞こえなかった。見えない、目が見えない、何もかも遮断する、方向感覚を失い、意識がもうろうとしている。誰かが『こいつは戻りつつある』と言ったか。自分の言っていることは本当だと思う、確かではない。よだれを垂らしていたと思う。完全な停止だ。」
「集中できない、読めない。頭が麻痺したようだ。知っているはずの言葉が頭のなかでつかめないことがある。行き詰まって、別の言葉を考えなければならない。記憶が失われていく。取り戻せないかもしれない何かを失いつつあると感じる。」
ある囚人は、自らの心を立たせておくための方法を自分で作りあげていた。
「集中しようとしなければならない。歴代大統領のリストを思い出せ。州を暗記しろ、州都を、五つの区を、七つの大陸を、九つの惑星を。」
その文には、自らの心を手放すまいとする人の、むき出しの闘いがある。誰もそれを彼に教えなかった。自分で見つけたのだ。この細部も心にとどめておいてほしい。終わりで戻ってくる。
いま、そのすべての底にある問題に来る。
ある囚人は、看守たちが自分の脚を切ると言うのを聞いた。それから、確信が持てなくなった。
「音が聞こえる、看守たちが『あれを切り落とすぞ』と言っている。確かではない。言ったのか、それとも俺の想像か。」
研究者は、この不確かさの臨床的な意味を一文で立てる。もし看守が本当にそう言ったのなら、囚人は現実感覚を失いつつある。もし別のことを言ったのなら、あるいは言ったことが彼に向けられたものでなかったのなら、彼は知覚のパラノイア的な歪みを患っている。もし何も言わなかったのなら、彼は幻覚を見ている。そこにこの一文が来る。
「独立した裏づけがない。」
囚人は、このうちどれが当てはまるのかを、自分一人では知りえない。知るために必要なものが、彼から取り上げられているからである。
別の囚人が、そのつもりもなく、これを本稿の表題に変えた。彼は、聞こえた音を隣の独房の男と突き合わせようとしていた。
「看守たちが話しているのが聞こえる。あれを言ったのか。イエスか。ノーか。こんがらがってくる。隣の独房のやつと確かめようとした。あいつには何か聞こえて、俺には聞こえないことがある。俺たちのどちらかがおかしくなっているのはわかる、だがどちらだ。俺は正気を失いつつあるのか。」
独房のなかの男は、本稿が問おうとしている問いを、われわれより四十年前に、はるかに少ない言葉で問うていた。
VI. なぜ崩れるのか——試しは共同の営みである
あの男の場合に崩れたものには、名がある。そしてその原因は、よく思われているような「孤独感」ではない。
まず一つの欠けを見なければならない。精神医学はこれらの症状を精確に記述した。Grassianは、隔離棟で立ち現れる症候群を六つの成分で名指した。外的刺激への過剰反応、知覚の歪みと錯覚と幻覚、パニック発作、思考と集中と記憶の困難、割り込んでくる強迫的な思考、そして露わなパラノイアである。彼は、この症状の配置がきわだって独特であること、とりわけ知覚の障害がほかのほとんどどこにも見られないことを記録した。だが一つの問いを開いたまま残した。なぜこれらの症状はともに現れるのか、なぜほかならぬこの状況によって生み出されるのか。記述は完全だった。説明が欠けていた(Guenther, 2011)。
説明の試みは、精神医学からではなく哲学から来た。Guentherは、フッサールの間主観性の分析を、Grassianの証言のかたわらに置いた。その並置から出てくるものは、本稿の中心にある主張を、予想よりはるかに深くまで運ぶ。
現象学の伝統は、人が世界を現実として経験することは他者に依存している、と説く。フッサールの語では、超越論的間主観性。その論はこうである。われわれは対象を平らな面としてではなく、多面的なものとして見る。そうできるのは、同じ対象に対して他者が取りうる視点に、暗黙のうちに参照を送っているからである。世界を現実的で客観的なものとして経験することは、他者の沈黙の裏づけに支えられている(Gallagher, 2014による)。
この文はその重みのまま読まなければならない。現実感覚は一人きりの達成ではない。構造的に共同のものである。
いよいよ本題が来る。フッサールは一つの思考実験を立てる。他の主観と、それが私の世界経験に寄与するすべてを、思考のうちで括弧に入れよ。他の意識的存在の存在だけでなく、対象がもつ「誰にとってもそこにあり、近づきうるものである」という性格をも。何が残るか。フッサールの答えはこうだ。統一的に連関し、連続的に調和する世界経験の層が、なお残る。机は「誰もが見うる机」ではなくなるが、机として、安定して知覚されつづける。フッサールはこの残余を基づける層(fundierende Schicht)と呼ぶ。ほかのすべての経験の水準は、その上に築かれる。
Guentherの一手はこうだ。独房は、その思考実験が力ずくで遂行された姿である。そして結果は、フッサールの言ったようには出てこない。
囚人たちの証言に戻る。パンケーキが縮む。壁が波打つ。何もかもが溶ける。他者が実際に引き払われたとき、連関し調和した層は残らない。もっともむき出しの知覚的な安定さえ崩れ去る。ということは、フッサールが最も低く最も堅固だと考えた地盤は、その上の層によって支えられていたのである。基づける層は、自らを支えない。
そこから出てくる結論は、「人間は社会的動物である」という文よりもはるかに厳しい。共同性は、現実感覚の上に後から加えられた一枚ではない。もっとも初歩的な知覚的連関そのものが、共同で立っている。
フッサールは機制にも名を与える。対化(Paarung)である。私の「ここ」は他者の「そこ」であり、入れ替われば、彼の位置が私の「ここ」になる。この相互性は推論の作用ではない。前反省的に、受動的総合を通じて構成される。私は、向かいにいる者がマネキンではなく意識であると決めるのではない。そう知覚するのである。Guentherがここから引き出す結論は重要だ。対化は意図的な確認の作用ではないため、いったん断たれると、ほかの手立てで埋め合わせることは難しく、おそらく不可能である。自分に注意を向けることで閉じられる隙間ではない。
ハイデガーは同じことを別の方向から言う。他者とともにあること(共存在)は、人間存在に後から加わる特性ではなく、その構成的な構造である。ここから導かれる文は、一人で働く者なら誰でも一度は考えるべき文である。人が孤独でありうるのは、ただ、他者とともにある存在だからである(Gallagher, 2014による)。孤独は共同性の不在ではなく、その一つの様態である。メルロ=ポンティはこれを身体へと降ろす。われわれは他者を、観察することによってではなく、相互に働きかけることによって知覚する。身体のあいだには一つの協応がある。
いま独房に戻る。そこで断たれたものは接触ではなく、検証の回路だった。男は音を聞き、それが現実かどうかを試す道具を、もう手にしていない。隣の独房に尋ねるが、その男も同じ状況にある。二つの脆い測定器が、互いを測ろうとしている。
ここで浮かぶ当然の反論を、Guenther自身が立てる。その答えが、区別のもっとも鋭い点を印づける。独居拘禁のなかの男は、実のところ一人ではない。二十四時間監視され、食事からトイレットペーパーにいたるまで何もかもを他者に依存し、身体検査と強制的な介入にさらされる。接触の不足はない。それどころか、接触から逃れる場所さえない。だが、その関係は一方向に走る。見られるが、答えない。見られるが、誰かとともに見ることはない。Guentherはこれを二つの言い回しで要約する。「孤独なき孤立、関係なき関係性(isolation without solitude, relationality without relationships)」と。
区別が重要なのはここである。回路を開くのは接触の存在ではなく、その相互性である。一方向の接触は、回路を開かないばかりか、孤立を深める。
これには経験的な対応物がある。現実検討は通常、相互的で身体を備えた相互作用に埋め込まれている。脱身体化はそれを鈍らせる(Yang & Crespi, 2025)。現実の世界との接触が仮想の代替物で満たされると、共有された身体間の協応が消える。ミラーニューロンの活動が、画面の前よりも対面の相互作用ではっきりと高いことは、共有された現実検討が、生理的に身体的な相互性に支えられていることをうかがわせる。
別の研究が機制を完成させる。低度の不信が回避へと導くと、信念は試されないまま、しだいに柔軟さを失い、修正に抗うようになる(Holt, 2025)。
介入の文献はこれをさらに鋭くする。孤独感を減らそうとする研究のメタ分析は、四つの別々の戦略を区別する。社会的技能を高めること、社会的支援を厚くすること、社会的接触の機会を増やすこと、そして不適応な社会的認知に取り組むことである。無作為化比較の設計を用いた研究のうち、もっとも成功したのは最後のものだった(Masi et al., 2011)。三十二の無作為化対照試験を対象とする、より新しいメタ分析も同じ方を指す。社会的接触を増やすことに焦点を置いた計画は、接触の量を実際に高めたが、孤独感には効果を残さなかった。最大の益は、不適応な帰属の偏りに取り組む認知的な取り組みからもたらされ、とりわけ若い参加者においてそうだった(Zagic et al., 2022, Holt, 2025による)。したがって、決め手は接触の量ではなく、認知の向きである。
この知見は、第IV章で引いた区別の経験的な顔である。そこでは、孤独感が一人でいることと同じではないことを見た。ここでは、孤独感の手当てが人の群れではないことを見る。同じ構造の二つの顔である。
ここには、記録に値する一つの収斂がある。現象学は、百年前に書かれた意識の分析から出発し、一方向の接触は回路を開かないという結論に至る。無作為化対照試験は、三十二の別々の実験のデータから出発し、接触の量を増やしても孤独感は解けないという結論に至る。二つの方法には共通するものが何もない。一方は概念の分析、他方は数値の測定である。それが同じ場所に出てくることは、見いだされたものが方法にではなく現象に属することをうかがわせる。
この二つは併せて、「君は一人だ、だから現実から切れている」という判断を、まっすぐ真ん中で断ち切る。乖離を生むのは孤独そのものではない。検証の回路が閉じることである。そしてその回路は、人の群れのただ中でも閉じうる。
まさにこの理由によって、独房で起きたことは本稿に一つの基準を与える。問うべきは「この人は一人か」ではない。問うべきはこうである。この人が自らの信念を試せる回路は、開いているか。
VII. だが、選ばれた孤立は安全か
いや。これは言っておかねばならない。逆の説は本文を慰めるが、偽だからである。
西洋の仏教瞑想の実践者と指導者への面接に基づく研究では、六十八人の参加者の四十九パーセントが、瞑想と結びついた妄想的な思考を少なくとも一つ報告した。もっとも多かった型は、特別な知識(三十九パーセント)、死あるいは死につつあること(二十七パーセント)、他者からの危険という形のパラノイア(二十四パーセント)、そして誇大(二十一パーセント)だった。これらは通り過ぎる奇妙さではなかった。報告した三十三人のうち、十一人に抗精神病薬が処方され、八人に新たな精神疾患の診断が下された(Solomonova et al., 2025)。
ここにいる人々は囚人ではない。自らの意志で来て、指導者と共同体とともに取り組み、自分が何をしているかを知っている。つまり「選ばれた孤立」の定義にぴたりと当てはまる。
この研究のもっとも重要な所見は、一つの欠如の所見である。妄想的な観念を報告した者に、精神科的あるいは外傷の既往がより多く見られたわけではない。彼らは、共同体に属していることや指導者とともに取り組んでいることの点でも、ほかの者と違わなかった。つまりこの現象は、「もともと脆い数人の身に起こること」ではない。
いま、本稿でもっとも物語る事例に来る。ある参加者が、リトリートで起きたことをこう語る。
「リトリートで、確かにこういう体験をした。自分の仕事について何をすべきかを正確にわかっていて、これをすればこうなり、そしてこうなる、と。ほら、素晴らしい洞察だと自分では確信していた、あの壮大な考え全体だ。そしてリトリートが終わったその瞬間、『いったい何を考えていたんだ』という感じになった。つまり、現実に本当にうまくいくものからは、まったくかけ離れていたのだ。」(#62)
この男は嘘をついていない。狂ってもいない。リトリートのあいだ、彼は自分の予測を確信していて、その確信の感覚は本物だった。外に出ると、同じ予測を彼自身が退けた。
何がそれを正したのかに注目せよ。それは外から下された判断ではなかった。誰も彼に「大げさだ」とは言わなかった。彼自身の試しの回路が再び開き、彼が自分でその試しを行ったのである。
この事例は二つの方向に同時に切れ込む。一方で、選ばれた孤独は無害だという慰めを打ち壊す。他方で、孤立した人は自らの誤りを認められないという主張をも打ち壊す。この男はそれを認めたからだ。しかも助けなしに。
なぜこれが起こるのかについて研究者たちが提案する機制は、本稿の枠組みにぴたりと合う。リトリートは、通常の環境的な手がかりを減らし、社会的・職業的な文脈を変え、睡眠と社会的活動を制限するように設計される。つまり選ばれた孤立もまた、独房と同じように、検証の回路を狭める。違いは、内側から扉を施錠し、鍵を手元に持っていることである。
量的な側でも誠実でなければならない。独居拘禁についての、十三の研究と三十八万人を超える囚人を対象とするメタ分析は、一般的な心理的症状との中程度の関連を示す。標準化平均差は0.45、外れ値を除くと0.51である(Luigi et al., 2020)。この効果は、一般的な収監と、あらかじめ存在する精神疾患を超えて現れる。だがこの研究は用量反応曲線を打ち立てはしない。「孤立が長引くほど悪化が増す」という広く行きわたった信念は、メタ分析の水準では実証されていない。ただ一つの、方法論的に弱い研究で指摘されているにすぎない。用量が効くことはもっともらしい。だが証拠は、それをいまだ確実にはしない。
VIII. では、なぜ誰もが崩れるわけではないのか
ここまで来た読者は、陰鬱な絵を見るかもしれない。そう見るべきではない。絵のもう半分もまた経験的であり、少なくとも同じだけ堅固だからである。
二千人を超える人々を対象に行われた研究は、孤独の見返り、すなわち自律、自己とのつながり、内なる深まりが、現実的で測定可能であることを示す。もっとも堅固な所見はこうである。自ら定めた願いから、自発的に孤独へ入ることが、それがもたらす幸福をもっとも強く予測する(Weinstein, Nguyen & Hansen, 2021)。
これが、修道院と監獄の違いの、測定可能な対応物である。外から見る者は物理的な独りを見る。内なる経験を決める変数は目に見えない。その人がどんな願いをもって入ったか、である。
同じ研究は、飛ばしてはならない一つの警告も担う。自ら方向づける深まりは、短い目で見れば平穏を下げうる。明晰化には代価がある。独創的な仕事を養うのと同じ内への向き直りは、度を越すと、心を自らのまわりに回らせもする。
だが、欠けている環は別のところから来る。
Anthony Storrは、孤独についての自著で、自らの以前の見解を公然と改める。かつて彼はこう信じていた。人は、自らを比べる他者がいなければ、一個の別個の個人として自らを意識しはじめることができない。孤立のなかの人間は、個性なき人間である。創造的な芸術家は、一人でいるときにこそ最も自分自身であると信じて、芸術が伝達であることを忘れる、と。そして彼はこう付け加える。
「いまもこれを信じている。だが一つ付言を加えておきたい。成熟と統合は、私がこれまで見込んでいたよりも大きな度合いで、孤立した個人のうちで起こりうる、ということだ。偉大な内向的な創造者たちは、自己参照によって——すなわち、他者と交わることによってではなく、自らの過去の仕事と交わることによって——同一性を定め、自己実現を達成することができる。」(Storr, 1988)
この文は、第VI章の暗い絵を完成させ、釣り合わせる。
独房のなかの男が失ったものは、検証の回路だった。Storrが指し示すのはこうである。孤立した作り手には第二の回路がある。自らの積み重ねた仕事である。年月をかけて生み出したものは、彼を見返し、彼に抵抗し、彼を否定しうる外的な現実である。去年の仕事を今日見て「これは間違っていた」と言える者は、試しを行っている。回路は開いている。
違いはここにある。独房のなかの男には何もなかった。聖書を除くすべての読み物が取り上げられ、自らの過去とつなぐ絆は断たれ、残されたのは壁と音だけだった。だからこそ彼は歴代大統領のリストを暗記した。支えとなる外的な対象が残らなくなったとき、彼は一つを自ら作り出そうとした。
この作り出す努力の、ほかの実例も記録に残っている。Robert Kingは、独居拘禁で過ごした二十九年のあいだ、砂糖、ピーナッツ、粉ミルクの袋を集め、アルミ缶から鍋をこしらえてプラリネ菓子を作り、また、折りたたんだトイレットペーパーの升目を歯磨き粉で床に貼って作った盤でチェスを指した(King, 2010, Guenther, 2011による)。もう一人の独居拘禁の囚人、Herman Wallaceは、芸術家Jackie Sumellとの協働のなかで、想像のなかの家を設計しつづけた(Sumell & Wallace, 2006, Guenther, 2011による)。
これらの例を報告する研究は、すぐあとに一つの警告を加える。その警告は本稿にも当てはまる。一部の人が抵抗をなしとげることは、構造が崩れるという事実をやわらげはしない。抵抗が示すのは、人の耐久力であって、条件の無害さではない。この二つを取り違えると、耐えた者を尺度に取り、耐えられなかった者を責めるところまで行き着く。
Storrが描く創造者は、まさに逆の位置にいる。彼には、年月をかけて積み重ねた、立ち返ることのできる、自らの矛盾を見てとることのできる仕事の集積がある。試しは続いている。ただ、対話の相手が変わっただけである。
Storrは同じ箇所でさらに二つの観察を行う。第一に、一つのプロジェクトを仕上げたあと、高度に創造的な人はしばしば抑うつの時期を経験し、次の仕事に取りかかることによってのみそこから解放される。第二に、こうした人々は、自らの内なる世界を、他者による早すぎる詮索と批判から守ろうとする傾向がある。
この第二の観察は、冒頭の文がなぜあれほど痛むのかを説明する。「大げさだ」は、まだ熟していない何かに触れる。問題は、判断の内容と同じだけ、その時機にある。
最後にもう一つの重り。絵が一方向に傾いてはならないからである。九百人を超える遠隔勤務者を対象とする研究は、孤立の影響が性格の型に依存することを見いだす。一人で働くことを好み、内向的で、情緒的により脆い型は、遠隔勤務において、より低い創造性と、より高いストレスを示した(Michinov et al., 2022)。これは、「一人で働く者はより創造的だ」という予期への、経験的な歯止めである。二つの機微も飛ばしてはならない。測られた型は純粋な孤独ではない。一人でいることへの好みを、高い情緒的な脆さと合わせて測っている。そして測られた創造性は、五分間の速い産出課題であり、孤立した作り手の実際の場である長い射程の深い仕事を、それは捉えない。
IX. 「空想している」は正しい問いではない
冒頭の文の後半に戻ろう。
「空想している」という言い回しは、空想をそれ自体で欠陥とみなす。だが空想は中立的で普遍的な能力である。誰もがする。意味のある問いは、空想が在るかどうかではなく、それが何をするか、である。
空想が病理へ傾く形を、不適応的白昼夢(maladaptive daydreaming)と呼ぶ。この概念は、病理の閾を、内容にではなく機能に置く(Somer, 2002)。空想は、人との交わりの代わりになるとき、あるいは学業的・対人的・職業的な機能を損なうとき、不適応とみなされる。基準は、空想が何についてのものかではなく、それが何の代わりに立っているか、である。
二万四千人を超える参加者を対象とするメタ分析は、不適応的白昼夢と精神病理とのあいだに一貫した結びつきを見いだす。相関は、一般的な精神病理と0.54、解離と0.45、孤独感と0.29である(Somer et al., 2025)。この三つの値が依拠する研究の数は等しくない。一般的な精神病理は六つ、解離は十、孤独感はわずか三つに依拠しており、それが最後のものを最も脆いものにしている。
ここで誠実な境界を引かねばならない。このメタ分析の標本は病理的な極の上に築かれている。われわれが「孤立した独創的な仕事」と呼んできた創造的な極は、そのデータには表れていない。見いだされた相関が示すのは、空想一般ではなく、病理と結びついたその形である。
だから正しい問いは「その人は空想しているか」ではない。答えは誰にとってもイエスだからだ。正しい問いはこうである。空想は仕事を養っているか、それとも仕事の代わりに立っているか。
実際には、この区別はきわめて鋭い基準を与える。空想が、朝、机に向かい、仕事をし、結果を見ることへと導くなら、それは能力の創造的な使用である。空想そのものが満足を与え、仕事が一向に始まらないなら、機能は置き換わっている。
もう一つ、時機の問題がある。おそらくそのすべてのなかで最も重要なものだ。
ある予測が「ビジョン」なのか「空しい妄想」なのかは、結果が現れる前には見分けられない。実現したものは、あとから「ビジョン」と呼ばれ、実現しなかったものは「大げさ」と呼ばれる。どちらも回顧的なラベルである。妄想的な観念についての仮想現実の実験は、この種の信念が、別個の欠陥ではなく、正常な過程の延長であることを示す。迫害の観念は、低いパラノイアから臨床的な妄想へと連なる三つの群を通じて、段階的に増える。臨床的でない高パラノイア群で2.86倍、臨床群で12.51倍である(Freeman et al., 2010)。この階段の規則正しさは、範疇的な飛躍ではなく、一つの漸次性を指す。守りとなる要因もはっきりしている。急いで結論に飛ばないこと、疑いと、別の説明の余地を残すことである。
したがって両者を分かつのは、信念の内容ではなく、推論の柔軟さである。同じ予測を擁護する二人のうち、一方はビジョンをもつ者、他方は妄想にとらわれた者でありうる。違いを生むのは、反証が届いたときに何が起こるか、である。
X. 判断を下す者の較正
いま、天秤のもう一方の皿へ移る。ここで注意が要る。この章はたやすく慰めに変わりうるからだ。そうはさせない。
「大げさだ」は確率についての主張である。暗黙のうちにこう言っている。君の予測が実現する見込みは低い、と。
この主張は、たいてい統計的に正しい。無作為に選ばれた個人の大きな予測が実現する確率は、実際に低い。基準率は楽観を罰する。そう言うことは現実主義であって、悲観主義ではない。
だが一つ問題がある。すでに並外れた企てに乗り出し、自らの分野で何年もの積み重ねをなした人は、一般人口から引かれた無作為の標本ではない。その人に一般人口の率を当てはめるのは、誤った参照クラスを用いることである。同じ人が、どの率に置かれるかによって、「現実的」にも「妄想的」にも見える。
そこから出てくる結論はこうである。較正の誤りは対称的である。
作り手は自らの確率を膨らませるかもしれない。楽観バイアスが、現実よりも明るい未来へと彼を押しやる。これは真の誤りであり、本稿はそれをやわらげない。だが観察者も対称的な誤りを犯す。慣れない分野の内的な率を知らないまま、その人を一般人口の率に置く。両者ともに基準率の誤謬にさらされている。ただ、逆の方向にである。
いま、第V章で心にとどめておいてほしいと言った知見に戻る。
思い出してほしい。訴訟が進行しており、囚人たちは症状を誇張すると予想されただろうに、逆のことが起きた。囚人たちは症状を小さく見せ、「独房なんて平気だ」と始め、精神科医たちはさらに引き出すために押し進めなければならなかった。
その知見がここで持つ意味は大きい。
観察者は、ある結果の確率を見誤るだけではない。相手がどちらの方向へ逸れるかも見誤る。「大げさだ」という判断は、その人が誇張の方向へ逸れることを、はじめから前提する。ところが、外から見て誇張がもっとも予想される条件、すなわち訴えを起こした独居拘禁の囚人たちにおいてさえ、逸れは逆の方向へ行った。
これは判断を無効にはしない。判断が依って立つ直観を弱める。「人はこの状況では誇張する」という直観は、それが試されえた最も適した場所で、もちこたえなかった。
これにこう付け加わる。信念が根拠を欠くと知ることは、連続性のどの点でも難しい。その難しさは、予測を下す者だけでなく、判断する者にも当てはまる。判断する者もまた、自らの直観の地盤を見ることができない。
ここで一つ、はっきり言っておかねばならない。さもなければこの章は誤って読まれる。
このどれも、「君を批判する者は浅い」という意味ではない。そう読まれれば、この文章は心地よい嘘へと崩れ落ちる。観察者の誤りは悪意ではなく、見下しでもない。それは誰もが犯す推論の誤りである。そして作り手は、同じ誤りを自らに有利な形で犯している。実際、冒頭の文を口にする人は、たいてい侮りからではなく、心配からそれを言う。
そこから出てくる唯一の結論はこうである。どちらの側も、最終的な判決を下しうる道具を手にしていない。両者ともに較正に服する。
XI. 賞めも咎めもせず
ここまで本稿は一つのことを前提してきた。判決が下される、ということである。基準を探し、較正を論じ、問いを研いだ。そのすべてが「どうすれば正しい判決を下せるか」という問いのまわりを回っていた。
だが、一つの問いは問われなかった。そもそも、われわれは判決を下さねばならないのか。
第IV章の歴史的な知見を思い出してほしい。一人で生きることは、二百年前まで欠陥ではなかった。それを欠陥たらしめる概念が、まだ築かれていなかったからである。クルーソーは島で二十八年を過ごしたが、著者はそれを欠如として書くことを思いつかなかった。同じ物語が今日語られたなら、主人公の心の健康が小説の中心に置かれるだろう。
これは孤立の影響を取り消しはしない。それは第IV章ではっきり述べた。取り消されるのは別のものである。孤立して生きることを道徳的な範疇にする反射である。その反射は普遍的な人間の直観ではなく、ある特定の歴史的な時代の産物である。
もう一歩踏み込む必要がある。ここに本当の問題があるからだ。
人の好みは、その生に外から加えられる決定ではない。どう生きるか、何に時を割くか、誰とどれだけ過ごすかは、その人が何であるかの延長である。一人で働くことを選ぶ者は、単に生き方を選んでいるのではない。自分自身であることの一つの仕方を続けている。だからこそ、その選択に向けられた道徳的な判断は、行動にではなく、一つの存在に触れる。文が不釣り合いなほど痛むのも、そこから説明がつく。
しかも、好みは固定していない。ここでの最も興味深いことがこれだ。
よくある枠組みは、選ばれた孤独と強いられた孤独を、二つの別々の箱として扱う。だが境界は透過性をもち、二つの方向に働く。一方の方向はすでに知られている。選ばれたものとして始まった孤独が、時が長引き、代わりの道が閉ざされるにつれて、強いられたものへと変わりうる。逆の方向はあまり語られないが、それに劣らず現実である。必要から始まった状況が、時とともに好みへと変わりうる。人は、望まなかった孤独のなかで一つの働き方を築き、その働き方が功を奏し、やがてそれがその人の好みになる。もとの必要が取り除かれても、彼は戻らない。
この方向は、近ごろ、大きな自然実験のなかで観察された。パンデミックのロックダウンのあいだ、人口の大きな部分が、慣れ親しんだ社会的な周囲から、意に反して断ち切られた。ロックダウンを生き抜いた若い成人を対象とする質的な研究は、一部の人がこの強いられた孤独を変容の資源に変えることができたことを示す。見せるために保たれていた社会的な務めからの解放、内へ向かう省察に開かれる余地、自己の感覚が自らの価値によりよく合致していくこと(Paterson & Park, 2023)。外から見れば、絵は終始同じだった。家で一人でいる人々。内で起きていたことは、ある者にとっては喪失、ある者にとっては得だった。
これには測定の側にも痕跡がある。生涯にわたる孤独を調べた研究では、自ら定めた一人でいたいという願いが三つの項目で測られ、そのうちの一つがまさにこれを探る。「独りでいるほかに選択肢がないと感じた」(Weinstein et al., 2021)。いいかえれば、この尺度は、真の好みと、なすすべのなさとの違いを見ようとする。同じ研究で、この自ら定めた動機づけは青年で最も低く、成人で最も高い。高齢の成人は、一人でいるとき最も心安らぎ、最も孤独感が薄いと報告する。高齢期の孤独についての、広く行きわたった不安とは逆の絵である。
ここで誠実でなければならない。これは横断的なデータであり、同じ人々が時間をかけて追われたわけではない。異なる年齢層が異なる答えをすることは、世代の違いからも来うる。だからこの所見は透過性を証明しない。それと整合するだけである。その区別を保たねばならない。さもなければ、望んだ結論をデータに言わせたことになる。
いま、この議論に対する最も重い反論に来る。予期しておかなければ、ここが本稿の最も弱い点になるからだ。
反論はこうである。必要が好みへ変わることは、解放ではなく降伏かもしれない。人は、手に入らないものを望まなくなる。届かない生を貶め、届く生を持ち上げることは、痛みを減らす知られた仕方である。その場合、「好みに変わった」と言うことは、制約が内面化されたことを飾って言うにすぎない。この反論は重く、それが正しい事例もある。
だが、見分けるための基準があり、本稿はすでにそれを二度示した。
独房のなかの男を思い出してほしい。心を立たせておくために、彼は歴代大統領のリスト、州、州都、大陸、惑星を暗記していた。これは適応の努力であり、敬意に値する。だが、こう気づいてほしい。そのリストは何にも開かれていない。彼はそれで何も生み出しておらず、どこにも到達しない。彼に残された唯一の機能は、崩壊を遅らせることである。
Storrが描く創造者を思い出してほしい。彼もまた一人である。彼もまた自らの内なる資源に向き直った。だが、彼が向き直る先は、積み重ねられた仕事の集積であり、その仕事は育ちつづける。去年の仕事を見て異を唱え、それに応じて今年のものを築き、来年には両方に異を唱えることができる。
どちらも孤独と折り合いをつけている。違いは、その折り合いの仕方が能力に何をするか、にある。一方は狭めることでそれを守り、他方は広げることで守る。
前者では、必要は本当に好みへと変わった。後者では、好みの言葉は、一つの狭まりの上にかけられた覆いである。
この基準は、本稿自身の論である。手元の資料のなかに出来合いのかたちで存在してはいない。二つの生の事例の比較から引き出されたものであり、そのように印づけられる必要がある。一人でいることの自発性を測る研究は、一つの断面で何が事実かを測るのであって、その断面がどう成り立ったかを測るのではない。
そこから出てくる結論は規範的であり、本稿の到達する最も遠い点である。
孤立は、賞めも咎めもされるべきでない条件である。賞められない。第VII章のリトリートのデータがそこにあるからだ。選ばれた孤立もまた人を歪めうるし、誰もそれに免れない。咎められない。第VIII章のデータも同じくそこにあるからだ。同じ条件が、成熟と産出の地盤でありうる。しかも、道徳的な判断には見えない回路を通じて。
この結論も新しくはない。孤独についての最初の包括的な近代の論考を書いた医師は、二百四十年前にこう言っていた。孤独の悪しき効果と善き効果とを、さまざまな状況のもとで、さまざまな頭と心において、なお観察し吟味しなければならない。どのような場合に孤独が害をなし、どこで善き実を結ぶのかを言いうるのは、そのあとである(Zimmermann, 1784)。その後の二世紀で、測定の道具は変わった。判決を下す性急さは変わらなかった。
残るのは判断ではなく、関心である。すなわち、この問いだ。この人の回路は開いているか、その能力は育っているか、その仕事は進んでいるか。これらは問いうる問いであり、その答えは判決を必要としない。
XII. 手元に何が残るか
本稿は弁護ではなかった。冒頭の文を反駁しようとはせず、それを真剣に受け取り、その中身を開いた。手元に何が残るかをまとめよう。
孤立は結果ではなく、条件である。それはひとりでに、現実からの乖離も、独創的な仕事も、もたらさない。だからこそ、「孤立しているから幻覚を見ている」という文と、「孤立しているから独創的だ」という文は、同じ誤りを分かちもつ。どちらも同じ部屋を見て、内で誰が何をしているかを問わずに判決を下す。修道院と監獄は同じ建築である。
だが本稿は不確かさで終わりはしない。鎖の環が見えるようになり、環は問いうる問いへと変わるからである。
回路は開いているか。
独房で崩れたものは孤独ではなく、検証の可能性だった。自らの信念を打ちつけられる外的な面があるか。その面は人でありうるし、自らの過去の仕事でありうるし、仕事が世界で出会った現実の結果でありうる。回路は人である必要はない。だが、何かである必要はある。
見えるものか、生きられるものか。
物理的な独りと、孤独感という感情とは、同じものではない。一方は目に見え、他方は見えない。そばに人がいることは前者を癒やさず、いないことは後者をもたらさない。外から見る者は、見える側だけを測ることができ、たいていは、自分が測っているのがそれだと気づかない。
誰が施錠したのか。まだ同じ人か。
扉は内から施錠されたのか、外からか。自発性は、測られた最も強い見分けの要因である。だがこの問いは、一度問うて済ませられはしない。答えは時とともに変わり、しかも二つの方向に変わるからである。選ばれたものは強いられたものになりうるし、強いられたものは選ばれたものになりうる。
広がっているか、狭まっているか。
孤独が好みへ変わることが本物か覆いかは、その人の能力が語る。できることが増えているなら、変容は本物である。望みうることだけが減っているなら、それは好みではなく降伏である。
空想は仕事の前にあるか、それとも仕事の代わりにあるか。
空想が机に向かうことへ導くなら、それは能力である。空想そのものが満足を与え、仕事が一向に始まらないなら、機能は置き換わっている。基準は感情的ではなく、行動的である。今月、何が生み出されたか。
反証が届いたとき、何が起こるか。
ビジョンを妄想から分かつのは、内容の大胆さではなく、推論の柔軟さである。反証されうる予測は、反証されたときに変わるか。
用量はどこにあるか。
期間と強さは本当に重要である。だが、そう言うには誠実さが要る。用量反応曲線は、メタ分析的に打ち立てられていない。もっともらしいが、証明されてはいない。
これらの問いのどれも、「君は正しい」あるいは「君は間違っている」という答えを与えない。すべては較正の問いであり、そこが要点である。結果が現れる前に、唯一の正当な操作は、確固たるラベルではなく、確率の較正である。
そして較正は一方的ではない。冒頭の会話が行き詰まったのは、そのためである。双方が確固たる判決を下していて、どちらも判決を下しうる道具を手にしていなかった。答えは「君は正しい」ではなく、「君は分かっていない」でもなかった。答えはこうだった。われわれはどちらも測っている、どちらの道具も脆い、だから基準を語ろう。
最後に一つ。この文章のあいだじゅう、主題は一人で働く人のように見えてきた。そうではない。
もし現実検討が共同の、身体を備えた過程であるなら、それを鈍らせうるのは物理的な孤独ではなく、検証の回路の摩耗である。顔と顔を合わせた相互性が、しだいに画面を介した接触に取って代わられ、誰もが自らの流れのなかで自らの証拠に囲まれる時代において、その摩耗は、もはや孤立した作り手だけの特別な状況ではない。
独房のなかの男は、ほかに測定器を持たなかったから、隣の独房に尋ねた。「あいつには何か聞こえて、俺には聞こえないことがある。俺たちのどちらかがおかしくなっているのはわかる、だがどちらだ。」
参考文献
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Zimmermann, J. G. (1791). Solitude considered with respect to its influence upon the mind and the heart. C. Dilly. (原著の同時代の英訳。標題紙によれば、ドイツ語からではなく、J. B. Mercierの1788年のフランス語訳から訳されている。本稿の引用はこの訳からは取っていない。版に関する注記を参照。)
版に関する注記
v1.2 · 2026年7月21日 · 二つの証言に名を与えた。
第八節における二つの抵抗の例は、以前の版では匿名で示されていた。いずれも出典のなかに本人の名で、そして本人が公表した証言をとおして現れている。新聞に載った Robert King 自身の一人称の証言(King, 2010)と、Herman Wallace が芸術家 Jackie Sumell とともに手がけた仕事(Sumell & Wallace, 2006)である。ここでの匿名化はいかなる私生活も守ってはいなかった。守るべき私生活がもはや残されていなかったからである。それがしたのは、読者が辿りえたはずの二つの一次資料を見えなくすることだけだった。名は元に戻され、文献は一覧に入った。
本文の軸は依然として構造であり、名は主張の主題ではなく証言の典拠である。この判断は、この試論自身が論じていることとも合致する。独居拘禁において擦り減るのは接触ではなく相互性、すなわち他者から認められることだと説く試論が、抵抗しえた者たちを名なきままにしておくことで、細やかな矛盾を生んでいたのである。本版はトルコ語原文の v1.2 に従う。
v1.1 · 2026年7月21日 · 第六節の現象学的な層を一次資料に据えた。
初版では一つの欠落が残っており、それは以下の「出典の扱い」の項で、v1.0 の注のなかに公然と記録されていた。第六節の現象学的な議論はもっぱら Gallagher(2014)の分析に依拠しており、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティの概念は「〜において論じられている通り」という但し書きとともに間接的に与えられていた。この主題に関する一次的な研究である Guenther(2011)は、公表の当日に入手されたものの、読まれてはいなかった。本版ではそれが読まれ、本文に組み込まれた。
第六節はそれに応じて組み直された。四つのことが加えられた。第一に、精神医学が残した説明の欠落である。Grassian は症状の群れを六つの要素として記述したが、なぜこれらの症状が共に現れるのかは説明しなかった。第六節が立てる問いは、まさにその欠落に落ちる。第二に、フッサールの思考実験と、独房からの証言によるその反証である。他者を括弧に入れてもなお、世界経験の整合的で調和した層が残るはずだと予測されていたが、収監者たちの証言はそうならないことを示している。これは試論の中心的な主張を強める。共にあることは現実感に後から加えられる層ではなく、最も素朴な知覚的整合性そのものを担うものなのだ。第三に、対化の機構は前反省的であり、それゆえ意識的な努力によって埋め合わせることができないということ。第四に、独居拘禁という状態が接触の剥奪ではなく相互性の剥奪だという区別である。それは同じ節を閉じる基準、すなわち回路が開いているかどうかという基準を直接に支える。
第八節には、同じ出典から二つの抵抗の例と一つの警告が加えられた。抵抗しえた者がいるという事実は、この状態が無害であることを示しはしない。介入研究の文献から得られた知見と現象学的な結論とが、独立した経路を通って重なり合うことも、あわせて記録された。
主張のレベルに変化はない。変わったのは、主張が乗る地盤が二次的なものから一次資料へと移ったことである。文献に一件が加えられ、「出典の扱い」の項における例外は三件から二件へと減った。
この日本語版に固有の帰結がある。フッサールはドイツ語で書き、Guenther はそれを英語で引く。第六節の概念は、したがってこのページのために新たに訳されたものでも、ドイツ語へ引き戻されたものでもなく、日本語におけるフッサール翻訳の術語に従っている。基準としたのは『デカルト的省察』浜渦辰二訳(岩波文庫、2001年)であり、そこから対化(第五一節)、基づける層、受動的総合、超越論的間主観性といった語を採った。ただし訳書そのものは手元になく、引用される一節そのものはドイツ語原文から訳し、術語のみをこの訳の用法に合わせた。機構を名指す箇所では、日本語の術語のかたわらにドイツ語の語を添えている。Guenther に固有の定式「孤独なき孤立、関係なき関係性」は英語のうちに生まれ、公刊された日本語訳を持たない。それゆえ英語のまま引き、その日本語訳はこちらのものである。
言い回しについても一点を記しておく。トルコ語の本文は、この症状の配置が他のどこにも見られないと述べている。出典では判断が二つの部分に分けてなされており、本版は出典に従う。配置そのものは「際立って類例がない」と記述され、他のどこにもほとんど見られないと言われているのは、とりわけ知覚の異常のほうである。
v1.0 · 2026年7月20日 · 日本語版の初版。
この日本語テキストはトルコ語原文(v1.1、初版 2026年7月20日、改訂 2026年7月21日)の翻訳であり、独自のバージョン番号を持つ。トルコ語テキストのバージョン履歴を引き継ぐことはない。
公表当日に行った訂正。他の言語への翻訳を進めるなかで、第十一節を閉じる典拠が精査された。Zimmermann の一文は、文献一覧にある1791年の英訳を典拠としていた。しかし引かれている言葉は、その英訳ではなくドイツ語原文から取られている。テキストの他の箇所と同じ出典の扱いに合わせ、引用はドイツ語原文(1784)から訳された。その日のうちにもう一つの層が開いた。引用の出所はドイツ語原文の第二部(1784年刊)であり、当該の一節は二つの別々の刷りで確かめられた。本文中の典拠はそれに応じて1784年へと移され、ドイツ語初版が文献に加えられ、1791年の英訳は別の項として残された。日付に依存する計算も正された。この一文が書かれてから経ったのは二百三十年ではなく二百四十年である。同じ回に、1791年の英訳の項も正された。その標題紙によれば、この訳はドイツ語からではなく J. B. Mercier のフランス語訳からなされている。日本語版はドイツ語原文から訳しているため、この一文に「〜において報告されている通り」という但し書きは付さない。バージョン番号は上げていない。主張は変わっておらず、訂正はここに記録される。
翻訳について
この試論の鍵は、一つの語が二つの事柄を覆うという事態にある。第四節は、英語でもトルコ語でも一つの語が、選ばれた孤独と強いられた孤独の両方を覆うと観察する。日本語もこの点で変わらない。トルコ語や英語で一語が担うその曖昧さを、日本語の「孤独」もまた一語のうちにそのまま担うからである。そこで本稿は、感情としてのそれを「孤独感」、状態としてのそれを「孤独」と呼び分けたうえで、両者が一語に畳み込まれていることそのものを論点とする。「孤独」を単独で用いるときは常に状態としての用法(孤独を選ぶ、孤独のうちに、といった名詞・行為の枠組み)に置き、感情の側は「孤独感」で受ける。ある語について語るときには「孤独」という語のように鉤括弧で標す。西洋の術語 solitude をそのままの音(ソリチュード)で持ち込むことはしていない。日本語には状態を担う確かな語がないという含みを避けるためである。なお isolation は「孤立」、solitary confinement は「独居拘禁」として、感情の語とは区別している。
第十一節に引かれる一節は、ドイツ語で書いた Johann Georg Zimmermann のものである。英語版に現れる英文は Rydberg(2021)の訳である。日本語には確立した訳が見当たらなかったため、この一節はドイツ語原文(1784)から訳した。文献一覧には、標題紙の記載に従い、1791年の英訳が Mercier の1788年フランス語訳からなされたものであることも記している。
フッサールの術語は、上に述べた通り『デカルト的省察』浜渦辰二訳(岩波文庫、2001年)の用法に従い、引用そのものはドイツ語原文から訳した。人名の読みについては、訳者の姓を浜渦辰二(はまうず しんじ)と読む。文体は常体(だ・である)で統一し、収監者たちの証言は、儀礼化を避け、話し言葉の硬さをそのまま残す口ぶりで訳した。
引用について
この試論で長く引かれている出典は、Zimmermann を除けば、いずれも英語で書かれた著作である。トルコ語原文ではそれらの一節は翻訳のかたちで現れている。本版では、それらをトルコ語や英語版からではなく、原典そのものから訳し直した。これは、Grassian(1983)における十五の受刑者証言と臨床的な枠づけ、Storr(1988)における改訂の一段落と二つの観察、Solomonova et al.(2025)における参加者 #62、Alberti(2019)から引かれた辞書の定義、Weinstein et al.(2021)の尺度項目に及ぶ。語句は逐語であり、原典のスキャンで判別しがたかった句読点のみを、語を変えずに整えた。
第四節の辞書項目は、原語(英語)の綴りを括弧内に必ず保ったうえで、日本語に訳している。そこで論じられているのは、ある英単語がある時代に持っていた意味であり、綴りそのものが証拠だからである。訳だけを示せば証拠は消える。だからこそ、日本語訳のかたわらに原綴りを併記した。
公表前に行った出典点検
このテキストは、公表に先立って出典点検を経ている。すべての引用と数値は、出典そのものに照らして改めて確かめられた。この回でなされた訂正は五件である。Solomonova 研究の標本規模(百件を超える面接ではなく六十八名の参加者)、同じ研究における二つの割合(抗精神病薬を処方されたのは四分の一ではなく三分の一であり、出典で「リトリートを去った」とされているのは新たに精神疾患と診断された者のことだった)、第六節の介入に関する知見の引用の連鎖(この知見は Holt 自身のデータではなく、そこで報告されている二つのメタ分析によるものであり、一次資料が加えられた)、第九節で Somer 2002 に帰されていながらその文中に見あたらない三つの基準の削除、そして Grassian の最初の引用のより忠実な訳、である。加えて、歴史的な議論が単一の出典に依っていることを扱う層が第四節に入り(Rydberg 2021、Zimmermann)、可透性の経験的な対応物が第十一節に入った(Paterson & Park 2023)。孤独についての最初の本格的な現代の論考から引いた証言も、あわせて加えられている。
自らの論として示すもの
公表前の草稿は、二つの点をこの試論自身の推論として数えていた。範囲を広げた探索が、そのうちの一つを取り下げた。
第一の点、すなわち選ばれた孤独と強いられた孤独のあいだの境界が双方向に可透であるということは、もはや独自の論としては提示していない。強いられた孤独が生成的な資源へと転じることは質的に記録されており(Paterson & Park, 2023)、本文はその研究に依っている。
第二の点、すなわち真の変容と屈服とを分かつ基準が能力の方向にあるということは、この試論自身の構築物として立つ。それは Grassian と Storr における素材の比較から引き出されたものであり、出典に接ぎ木されたものではない。ただし一つの留保が要る。この基準は真空のうちに立つのではなく、その論理において適応的選好の議論やケイパビリティ・アプローチと近しい。主張は「そのような基準はこの分野に存在しない」ではなく、「ここでなされた構築と、それをこの二つの事例に基づかせたこととが、この試論に属する」である。
出典の扱い
引用した出典の全文は、入手し、保存し、索引に収めてある。v1.0 の時点では三件の例外があり、一件は v1.1 で閉じられ、二件は公然と名を挙げてある。v1.2 でさらに二件の例外が開かれ、それらも以下に記録される。
Guenther(2011)『Subjects without a world? An Husserlian analysis of solitary confinement』は、この試論では用いられなかった。第六節の現象学的な議論はもっぱら Gallagher 自身の分析(2014)に依拠しており、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティの概念はそこで論じられているものとして標されている。この著作はのちに公開アクセスであることが分かったが、その本文は本版の準備中には入手可能にならなかった。(この例外は v1.1 で閉じられた。出典は読まれ、一次資料として第六節に入った。上の文は v1.0 の状態を記録するものであり、そのままにしてある。)
Somer(2002)は限定アクセスである。概念の定義は、著者自身のアーカイブにある翻訳されたテキストをとおして確かめることができたが、英語の原文そのものは見ていない。そのため、この出典に乗る言明は、翻訳が確かめえた核へと切り詰めてある。
Zagic et al.(2022)は限定アクセスであり、直接には見ていない。その知見は Holt(2025)をとおして報告されているため、本文および文献では「〜において報告されている通り」という但し書きとともに与えられている。同じ箇所の第二の知見については、一次資料(Masi et al., 2011)を入手し、直接に用いた。
King(2010)と Sumell & Wallace(2006)は直接には見ていない(v1.2 で開かれた二つの例外)。第八節の二つの抵抗の例は Guenther(2011)の報告によるものであり、本文では「〜において報告されている通り」という但し書きとともに与えられている。文献はそれを報告する出典自身の一覧から取り、読者が辿れるように加えた。新聞記事へのリンクは到達可能性を確かめてある。これら二つの証言の本文そのものは読まれておらず、細部は、報告する出典が選び取った範囲でのみ与えられている。
ページ番号について
Storr(1988)と Koch(1994)からの引用は電子テキストによる。Storr の刊行情報は確かめられたが(初版 1988年7月18日、Free Press、216ページ)、電子版がどの刷りのページづけを担っているのかが判然としないため、ページ番号は付していない。確かめられないページ番号を書くよりは、空欄にしておくことを選んだ。Zimmermann(1784)については事情が異なる。当該の一節は第二部の冒頭、Leipzig 版の3〜4ページにあり、二つの刷りで確かめられている。
他の記事
バージョン 1.0 · 初版:2026年7月30日 · トルコ語原文 v1.2(初出 2026年7月20日、改訂 2026年7月21日)より翻訳