1. 一つの失敗から取り出された道具
この文章は一つの小さな道具を差し出す。私たちの手元には一つの現象がある(世界で実際に起きている何かである)。その上に一つの思考、一つの枠組み、一つの理論を築こうとする。多くの場合、その理論は現象をほんとうに照らし出す。だが時に、現象が支えきれないほど重い建造物を建ててしまう。壮麗に見えて、しかし何一つ新しいことを言っていない枠組みである。この文章が与える道具は、その二つを見分けるためのいくつかの問いにすぎない。ある現象に理論が着せられているのに出くわしたとき(他人が築いた理論であれ、自分が築いたものであれ)、問うことのできる問いである。この道具を、私たちは抽象的なところからではなく、自分自身の失敗から取り出した。だからまず、その失敗を語らねばならない。
ある時期、私たちは人工知能について書かれた文章の奇妙な運命について考えていた。この種の文章は、書かれたその瞬間に古びることが多い。描いている当のもの(モデルの能力、限界、振る舞い)が、文章が読まれる頃にはとうに変わってしまっているからである。観察は本物だった。だが私たちはそれで満足しなかった。その観察のまわりに、しだいに大きくなる建造物を築き上げていった。書き手を「同時代の歴史家」と定義した。自らの現在をまだ生きているうちに書き留める者、というわけである。それから歴史哲学から概念を持ち込んだ。時間の層、地平の移動、出来事とその叙述とのあいだの距離。新しい概念のひとつひとつが前のものを正当化し、正当化のひとつひとつがまた新しい概念を呼び寄せた。
ある時点で、建造物は自らの重みの下に崩れ落ちた。崩壊の原因は外からの反論ではなかった。建造物の内側から来たのである。はかなさを語る文章が、それ自身もはかなかった。ゆえにその主張は自らを打ち消していた。「あらゆる人工知能の文章は古びる」と言うその文章もまた一つの人工知能の文章であり、それもまた古びるのだから。私たちはこの矛盾を一つの区別で救おうとした(建造物は持続する、古びるのは例だけだ)。だがその救いの概念そのものも、築かれたその瞬間にしか意味を持たず、それもまたはかなかった。あとに残ったのは素朴な診断だった。私たちは一つの道具に、それが支えきれないほど大きな哲学の衣を着せていたのである。現象(人工知能について書かれた文章はすぐ古びる)は本物で、ありふれていた。一文の注意書き以上のものには値しなかった。それを理論に変えることは、説明ではなく舞台仕立てだった。
この経験は一つの問いを残した。それがこの文章の主題でもある。ある現象は、どのような場合に理論に値し、どのような場合にそれに理論を着せることが単なる芝居仕立てにすぎないのか。その二つを見分ける方法はあるのか。
この問いが私的なものではないことを、はじめに言っておかねばならない。自分たちの失敗を例に選んだ理由は、それが特別だからではなく、むしろ代表的だからである。同じ誤り、すなわち一つの着想を必要以上に重い枠組みで飾り立てる傾向は、学術的な文章にも、いまの人工知能をめぐる議論にも、しばしば現れる。一つの事例を間近に調べることは、その事例が自らの証拠を携えているという点で、遠くから集めた多数の例よりも信頼できる。ここでは、何がどう間違っていったのかを内側から知っているのだ。
2. 病の名:過度の理論化
まず概念を狭く保たねばならない。ゆるく放っておけば、あらゆる理論構築の努力を呑み込んでしまい、何一つ見分けられなくなるからである。この文章で過度の理論化とは、ある現象に、次の三つの性質を欠いた枠組みを着せることを意味する。
現象を少数の原理へと圧縮しない(たがいに大きく異なるものを、単一の説明の核へと還元しない)。
新しい予測も区別も生まない(まだ見たことのない状況で何が起こるかを言わない)。
自らの適用範囲について不透明である(どこで有効で、どこで無効かを正直に示さない)。
注意してほしい。この三つの基準がすべて同時に欠けているとき、私たちは過度の理論化について語る。標的は壮麗な概念すべてではなく、何の仕事もしない概念だけである。この三つの性質の欠如は偶然ではない。三つが合わさって、説明という見かけの下に一つの単なる改名が横たわっている。つまり現象について新しいことを言うのではなく、それにより気の利いた名前をつけただけなのだ。これを二つの古い診断が合わさって照らし出す。
第一の診断:複製の誤謬(duplication fallacy)。Holth(2001)は、哲学と心理学において(モリエールからダーウィン、フロイトへと連なる線の上で)Ryle よりはるか以前に気づかれ、行動科学ではいまなお根を張った一つの誤りを取り上げ、それを複製の誤謬(英語では duplication fallacy)と呼ぶ。誤りとはこうである。ある現象を説明するために、その現象の想像上の複製を作り出し、次にその複製を現象の原因とみなすこと(Holth, 2001)。古典的な例はモリエールにある。モリエールのある戯曲で、試験を受ける医学生が、なぜ阿片は人を眠らせるのかと問われる。彼の答えは、阿片には「眠らせる力」(dormitive virtue)が含まれているから、というものだった。これは説明ではない。問いをより仰々しい言葉で繰り返しただけである。「なぜ眠らせるのか」に「眠らせるものだから」と答えても、新しい知識は何も加わらない。ダーウィンの戒めも同じ方を向いている。ある現象をただ言い換えているだけのときに、私たちはそれに一つの説明を与えたと思い込みうる(Holth, 2001)。私たち自身の崩壊はまさにこれだった。「文章は古びる」という現象を「同時代の歴史主義」と名づけ、次にその名前を現象の深さと取り違えたのである。
第二の診断:理論の引き伸ばし(theory stretching)。Frankenhuis、Panchanathan、Smaldino(2023)は、社会科学できわめて広く見られる一つのやり方を描く。曖昧な主張を、もともとの適用範囲の外にあるデータまで呑み込むように、しだいに広く解釈していくこと(英語では theory stretching、理論を引き伸ばすこと)である。著者たちが強調するように、これは反復する型でありうる。引き伸ばされた主張のひとつひとつが次の引き伸ばしの地盤を築き、適用範囲の外にあるデータがますます多く内側へ取り込まれていく(Frankenhuis ら, 2023)。私たちの建造物もそのように育っていた。新しい概念のひとつひとつが、前のものが開けた空隙を埋めるために呼び寄せられていたのである。
複製の誤謬と理論の引き伸ばしは、同じ病の二つの面である。一方は内へと働き(現象の内側に想像上の複製を据える)、他方は外へと働く(枠組みを現象の適用範囲の外へ引き伸ばす)。二つに共通する帰結はこうである。手にした証拠が、実際よりも強く見える。
3. 羅針盤:三つの問い、そしてもう一つ
診断だけでは十分ではない。役に立つ見分けのためには、一つの現象に出くわしたときに問うことのできる具体的な問いが要る。以下の三つの問いは、異なる文献から寄り集まってきたもので、一つの枠組みが正当な理論なのか、それとも過度の理論化なのかを試すのに役立つ。これらの問いが一つの羅針盤であって、断頭台ではないことを、はじめに述べておくのが大切である。つまり、方向を指し示しはするが、首を刎ねはしない。その理由は第五節で説く。
内的整合性
枠組みは、それが説明する現象の、より仰々しい改名にすぎないのではないか。
救済概念
あらゆる不利なデータを吸い込む万能概念が働いていないか。
適用範囲の透明性
現象を少数の原理へ圧縮し、新しい予測を生んでいるか。自らの適用範囲について正直か。
カテゴリーの適合
現象は、着せられた枠組みのカテゴリーに、ほんとうに属しているか。
問い一。内的整合性:枠組みは、それが説明する現象の、より仰々しい改名にすぎないのか。
枠組みの原因と結果が同じものの二つの名であるなら、そこに説明はない。「認知症は物忘れを引き起こす」のように、主語と述語が同じ現象を繰り返す言い方は赤信号である。認知症とはそもそも大部分が物忘れを意味するのだから、この文は一つの原因を言っておらず、同じことを二度言っている(Holth, 2001)。同じ問題はより巧妙な形でも現れる。Popov(2023)は、記憶研究にしばしば見られる一つの循環を描く(統計学で定着した名で「二度漬け(double dipping)」と呼ばれる)。研究者はまず、被験者から集めたデータを見ながらモデルの設定(パラメータ)を定め、次にそのモデルが同じデータによく合うことを理論の証拠とみなす。だが適合は初めから保証されていた。モデルはそもそもそのデータに合わせて調整されていたのだから。具体的に言えば、ある学生の試験成績を見て「この学生はこれだけ勤勉だ」と言い、次に同じ成績を「見よ、勤勉さが試験の点数を説明している」と差し出すなら、何一つ説明したことにはならない。成績から剥がしたラベルを成績に貼り直しただけである。Frankenhuis とその仲間たち(2023)はこれに時間の次元を加える。一つの理論が論文から論文へと整合しているかを問わねばならない、と。もっとも有害な習慣の一つは、異なる研究において同じラベルを異なる主張に用いることだからである。整合性は、一つの文章の内部だけでなく、一つの概念の時間にわたる諸用法のあいだにも求められる。
問い二。救済概念:枠組みは、あらゆる不利なデータを吸い込む万能概念を持ち出していないか。
一つの理論はどんな観察を禁じているか。何も禁じていないなら、すなわちあらゆる可能な結果と両立するなら、それに説明的な価値はない。ここでの原理は単純である。あるモデルが許すものが少なければ少ないほど、その許すものが現に起きたときにはいっそう印象的である。すべてに合うモデルは何も言っていない(Roberts と Pashler の原理、Popov 2023 を通じて)。一例を挙げよう。「明日は雨が降るか降らないかのどちらかだ」と言う天気予報は決して外れないが、まさにそれゆえに無価値である。どんな可能性も排除しないのだから。価値ある予報とは、外れる危険を引き受ける予報である。
この吸い込みには一つの修辞的な解剖学もある。Frankenhuis とその仲間たち(2023)は、これを Shackel の与えた名で「motte-and-bailey(本丸と外郭)」の手口と呼ぶ。名は中世の一つの城の型から来ている。bailey(外郭)は下方の広いが守りにくい集落地であり、motte(本丸)は上方の丘の上の、小さいが守りやすい塔である。攻撃が来れば集落から塔へ退き、危険が過ぎればふたたび下へ広がる。議論におけるその対応物はこうである。話し手はまず、野心的だが守りにくい主張を持ち出す(広い外郭)。反駁されると、それに似てはいるがはるかに慎ましく、守りやすい主張へと退く(丘の上の塔)。危険が過ぎると「私のほんとうの主張は反駁されていない」と言って、ふたたび野心的な主張へ戻る。私たち自身の「建造物は持続する、古びるのは例だけだ」という救済の試みは、まさに一つの丘の上の塔だった。ほんとうの大きな主張が追い詰められたときに逃げ込んだ、より小さく、より守りやすい避難所である。
ここでの危険には裏の顔もある。一つの枠組みを救うために持ち出される概念は、時に正当な核を携えているが、際限なく適用されると理論を反駁不可能にしてしまう。Dalton(2016)は、Pennycook とその仲間たちの見せかけの深さの測定に反対して「超越」という概念を持ち出す。無作為に生成された文でさえ、読者のうちに本物の洞察の瞬間を生むことがありうる、と。この反対には正当な一面がある。だが「超越」が、あらゆる不利なデータを吸い込めるほど広く残されたとき(文が有意味に思えれば「これぞ超越」、無意味に思えれば「あなたが超越に開かれていないのだ」)、それ自身が一つの救済概念に変わる。ゆえにこの試しは、他人の理論と同じく、私たち自身の反対にも適用されねばならない。
問い三。適用範囲の透明性:枠組みは現象を少数の原理へ圧縮し、新しい予測を生んでいるか。自らの適用範囲について正直か。
この問いは初め「この現象は理論に値するか」という形だった。Frankenhuis とその仲間たち(2023)の貢献がそれをより有用にした。彼らの力点はこうである。不確かさは初期の段階では避けがたく、むしろ有用でありうる。問題は不確かさそのものではなく、隠された不確かさである。一人の書き手が、自らの理論の適用範囲について(どの条件で有効で、どの条件で無効か)率直であるかぎり、不確かさは正直な出発点である。だがそれを隠して一つの明晰な外観を築くとき、そこに一つの「ポチョムキン村」が現れる。名はこう由来する。伝説によれば、ロシアの政治家グリゴリー・ポチョムキンは、女帝が通る沿道に、貧しい村の代わりに、遠目には村に見える塗られた正面を立てさせた。近づけば、背後に何もない一つの顔である。あまりに整えて示された理論もそうでありうる。遠目には堅固、近づけば空虚。
圧縮と新しい予測が、この問いに中身を与える。Popov(2023)にとって、一つの理論の価値は、多種多様な現象を少数の原理へ還元する度合いによって測られる。すべての観察をただ一つひとつ並べるだけの理論には何の価値もない(一冊の電話帳は多くの情報を担うが、何一つ説明しない)。よい理論は同時に一枚の「推論切符(inference ticket)」でもある(Ryle の用語、Popov 2023 を通じて)。まだ見ていない状況で何が起こるかを、あらかじめ言う。その最も美しい例の一つが海王星の発見である。十九世紀、天文学者ユルバン・ルヴェリエは、天王星の軌道のわずかな偏りを見て、まだ誰も見ていない一つの惑星が空のどこにあるべきかを、ただ計算だけで言い当てた。望遠鏡がその一点へ向けられたとき、海王星はそこにあった。よい理論はこうして「切符」を与える。手にした情報を、まだ行ったことのない場所への通行権に換えるのだ。Pennycook とその仲間たち(2015)は、同じ区別を伝達の側からとらえる。一つの文章(あるいは理論)は、知らせようとしているのか、それとも揺さぶろうとしているのか。疑似深遠なでたらめ(pseudo-profound bullshit)とは、意味を匂わせながら含まず、教えるよりも誘惑しようとする言葉である。私たち自身の崩壊はこの試しによって明らかになった。「同時代の歴史主義」は一つの現象を華やかな概念で繰り返しただけで、何一つ少数の原理へ還元せず、新しい予測を何一つ生まなかった。
第四の問い。カテゴリーの適合:現象は、着せられた枠組みのカテゴリーに、ほんとうに属しているか。
Gilbert Ryle(二十世紀イギリス哲学の重要な人物の一人であり、その心の哲学における主著は1949年の『心の概念』である)の貢献、すなわち「カテゴリー錯誤(category mistake)」(Holth, 2001)が、ここに一つの補いをもたらす。ある現象を、それが属さないカテゴリーの言葉で扱うこと。カテゴリー錯誤とは、あるものを間違った種類の箱に入れることである。古典的な例。誰かに大学を案内し、図書館を、諸学部を、寮を見せる。すると相手が問う、「では大学はどこですか」。大学は諸々の建物の傍らに立つ別の一つの建物ではない。それらが組織された全体である。彼は問いを間違ったカテゴリーで立てたのだ。私たちのしたこともまさにこれだった。人工知能について書く営みを(ありふれた、急速に古びる時事の文章の一種を)歴史哲学のカテゴリーに入れてしまった。そのような文章の書き手は歴史的な主体、一人の「同時代の歴史家」ではなかった。それに歴史理論の概念を着せることは現象を照らさず、それを間違った棚で探していた。
4. 羅針盤が働くのを見る:一つのガラスのコップ
ここまで私たちは羅針盤をおもに自分たちの崩壊の上で試してきた。だが自分たちの失敗は、重く、かつ複雑な例である。道具がどう働くかをよりありのままに見るために、理論とはまったく関わりのないありふれた現象を見よう。一つのコップが割れること。
手元に割れたガラスのコップがある。次の二つの文を比べよう。
「このコップは割れやすい。」
一つの傾向を名指す。反証可能で、一群の予測を圧縮し、正しいカテゴリーで語る。
「コップが割れたのは、内に割れやすさの本質を含むからだ。」
一つの実体を作り出す。あらゆる結果を吸い込み、過去を改名し、傾向を実体に変える。
一見すると、二つは同じことを言っているように見える。だが一方は羅針盤を通り、他方は引っかかる。四つの問いを一つずつ働かせてみよう(この例は Ryle にもとづく、Holth 2001 を通じて)。
内的整合性。(B)の文は、「割れた」という事実を説明するために「割れやすさの本質」なる内なる物質を作り出し、次に割れることをこの物質に結びつける。だが「割れやすさ」とはそもそも「割れやすい傾向」を意味する。つまり(B)はこう言っている、「割れたのは、割れる傾向にあったからだ」。これは阿片の「眠らせる力」とちょうど同じく、問いをより飾り立てて繰り返したものである。(A)はいかなる内なる物質も主張しない。ただコップの一つの傾向を名指すだけである。両者の差は微細だが決定的だ。(A)は一つの振る舞いの傾向を語り、(B)はその傾向を一つの実体に変え、それを原因であるかのように差し出す。
救済概念。(A)はどんな観察を禁じるか。「このコップは割れやすい」と言うなら、床に落としたときに割れるのを予期する。落ちて割れなければ私は間違っていた。「割れやすい」という呼び名を撤回せねばならない。つまり(A)は反証可能であり、ある観察を禁じる。では(B)はどうか。「内に割れやすさの本質を含む」と言うなら、コップが割れれば「見よ、本質が現れた」と言い、割れなければ「本質がまだ目覚めていない」と言える。いかなる観察もこの文を反駁できない。あらゆる結果を内に取り込むからである。これが救済概念である。説明しているように見えて、実際には何一つ排除しない万能の札。
適用範囲の透明性(圧縮と新しい予測)。(A)は、たった一語で一群の予測を包む。このコップは落ちれば割れ、硬いものに当たれば罅が入り、急な温度変化で砕けうる、踏まれれば粉々になる。「割れやすい」と言うやいなや、まだ行っていない実験の結果をあらかじめ読み取る。これは一枚の推論切符である。(B)は新しい予測を何一つ生まない。ただ、すでに起きた一つの出来事(「割れた」)をより重い言葉で繰り返すだけである。(A)は圧縮し、前へ向かって語る。(B)はただ過去を改名する。
カテゴリーの適合。「割れやすい」は一つの傾向の名である。ある物体が特定の条件でどう振る舞うかを言う。それを一つの傾向として用いる(A)は正しいカテゴリーである。だが(B)は、この傾向を一つの物質、一つの内なる実体のカテゴリーへ移す(あたかもガラスのなかに砂糖のように溶けた「割れやすさ」があるかのように)。傾向と実体は異なるカテゴリーである。一方を他方の言葉で語ることがカテゴリー錯誤である。
この例から二つの教訓が出る。第一に、羅針盤の仕事は現象ではなく、現象について築かれた枠組みを篩い分けることである。コップの割れやすさは本物だ。(A)と(B)は同じ事実についての二つの異なる文だが、羅針盤はそのうち一方だけを篩い落とす。つまりこの道具は「ガラスは割れやすくない」とは言わない。「割れやすさを一つの実体に変えても説明は加わらない」と言うのだ。第二に、同じ語(割れやすさ)が、ある文脈では正当な推論切符でありながら、別の文脈では空虚な改名でありうる。ならば裁きは語そのものにではなく、語がどう用いられるかに下される。この二つの教訓が、次節の核でもある。羅針盤は断頭台ではない。
5. 羅針盤はなぜ断頭台ではないのか
この四つの問いは、たやすく一つの拒絶の機械に変わりうる。「圧縮しない、ならばくずかごへ」。これは診断それ自身の誤りに落ちることである。少なくとも四つの独立した源が同じ戒めを与えている。この戒めもまた羅針盤の一部である。
Dalton(2016)は、あるものをただちに有意味にできないとき、それを自動的に無意味とみなすこと自体が一つの誤りだと思い起こさせる。深さは時に、読者の関与とゆっくりした凝視によって、あとになって現れる。Haslam、Tse、De Deyne(2021)は、一つの概念の拡張が自動的に悪いわけではないことを示す。ある拡張は、本物だが以前は見過ごされていた現象を認めるものであり、ゆえに漸進的な収穫でありうる。たとえば「いじめ」という概念が校庭から職場へ、さらにオンラインの領域へと及んだことが、それまで名づけられなかった本物の害を可視化したのなら、それは希薄化ではなく一つの収穫である。Frankenhuis とその仲間たち(2023)は、不確かさが初期の理論構築において避けがたく有用でありうることを、「二十の扉」という遊びから取った美しいたとえで主張する。その遊びでは一人が心に何かを思い、他の者たちがはい・いいえの問いでそれを言い当てようとする。「それは人間ですか」は広い問いであり、「それはリンゴ・スターですか」は狭い問いである。だが二つは同じだけ明晰である。ならば明晰さと狭さは異なる軸である。一つの枠組みが問題を孕むのは、それが広いからではなく、不透明である(自らの適用範囲について正直でない)からである。最後に Popov(2023)は、自らの基準(物理法則の水準の数学的厳密さ)を人文の諸学へそのまま持ち込むのは誤りだと認める。閾値を高く置きすぎれば何一つ通れず、すべてが「不十分な理論」として拒まれてしまう。
この四つの戒めに共通する教訓はこうである。羅針盤の仕事は、一つの現象を「理論に値しない」と切り捨てることではなく、自らを過度に重んじる枠組みを早くに察することである。方向を指し示し、処刑はしない。ここでの均衡が大切だ。道具それ自身も極端に走りうるからである。壮麗な概念のひとつひとつを頭から死罪に処す読者は、まさに早すぎる拒絶の誤りに落ちる。
6. なぜ広く見られるのか:二つの機構、測られていない一つの主張
過度の理論化がしばしば見られると言うのはたやすいが、これは一つの観察にとどまるべきで、測られた事実のように差し出してはならない。Haslam とその仲間たち(2021)の与えた教訓がここでは警告となる。直観的に予期された広がりでさえ、注意深く測れば偽と判明しうる(彼ら自身の研究では、精神障害の診断が時とともに全般的な「インフレーション」を起こしたという予期は、データに照らせば全般としては裏づけられなかった)。ゆえに私は「流行病」と言う代わりに、この傾向を養いうる二つの機構を名指すにとどめる。
学術の側で:誘因の選択。Frankenhuis とその仲間たち(2023)は、曖昧な理論がなぜ生き延びるのかを単純な論理で示す。曖昧な理論はあらゆる結果を吸い込めるので失敗の危険が低く、生産もより容易である。厳密な理論は反駁されうるので危険であり、生産もより手間がかかる。可視性と引用が報われるとき、たとえ誰一人意識して選ばなくとも、誘因の構造が曖昧な理論の生産者を前面に押し出す。これを一つの選択の過程と考えねばならない。意識された悪ではなく、環境がある型を報い、養うのである。要点は、この過程が意図をまったく要さないことだ。善意の研究者でさえ、この圧力のなかで曖昧さへ滑りうる。
いまの議論の側で:グル効果(guru effect)。Frankenhuis とその仲間たち(2023)は、自らの範囲の外に残した一つの可能性に触れる。Sperber が「グル効果」と呼んだ現象である。人は自分に捉えられないものを深いとみなす傾向がある。曖昧さが一つの不可解さを生み、その感覚が敬意を呼び起こし、敬意がまた一つの着想の広まりを速める。人工知能をめぐるいまの随筆や通俗の文章では、報いが「キャリア」ではなくまさにこの可視性であるため、グル効果は学術的な誘因のモデルを介するよりも直接にこの領域へ伝わる。不可解が深さと取り違えられ、深いと取られたものが広まる。
二つの機構はどちらも同じ方を指す。曖昧で壮麗な枠組みは、明晰で慎ましいものよりも容易に広まる。だがそれがどれほど広く見られるかは経験的な問いであり、この文章もそれを一つの仮説としてではなく、探究されるべき開かれた結びとして残す。(一つの結果の不在もまた一つの発見である。物理学では、マイケルソンとモーリーの有名な実験が、光を担うと思われた見えない媒質を測ろうとして、何の痕跡も見いださなかった。この「何もない」は、探し求めていた媒質が存在しないことを指し示したがゆえに、振り返ってみて一つの転回点とみなされた。当時の物理学者たちはその結果をただちにそう読んだわけではなく、媒質を救おうとする説明が何年も続いた。「広く見られる」と言う前に、広くないかもしれない可能性にも余地を残すことは、同じ正直さの小さな一例である。)
7. 羅針盤をこの文章へ向ける
過度の理論化を批判する文章それ自身が、一つの大聖堂でありうる。正直さは、私が提案した羅針盤をこの文章そのものに適用することを求める。
内的整合性。私は「過度の理論化」という概念を一貫して使えているか。ここでのほんとうの危険は、Haslam とその仲間たち(2021)が「概念クリープ(concept creep)」と呼ぶ過程である。一つの概念を、しだいに弱く、しだいに異なる現象へと伸ばし、ついにはそれがすべてを覆い、何一つ見分けられなくすること。だからこそ私は概念をはじめから狭く定義した(第2節)。あらゆる理論構築の努力ではなく、圧縮せず、予測を生まず、自らの適用範囲について不透明な枠組みだけを、と。もし「過度の理論化」をあらゆる壮麗な着想に貼りつけていたなら、私は自分が批判するその希薄化に落ちていただろう。
救済概念。この文章は自らの主張を、あらゆる反例を吸い込むように築いていないか。「必要がなければくずかごへ」は一つの広い外郭(bailey)でありえ、「だがこれは透明性の問題だ」は一つの丘の上の塔(motte)でありうる。つまり追い詰められれば、私は大きな主張から小さな主張へ逃げうる。この罠に落ちないために、私はどの理論構築が正当かをはっきり言った。内的に整合し、現象を圧縮し、新しい予測を生み、自らの適用範囲について正直なもの、と。ゆえにこの文章はあらゆる理論を裁くのではない。何を禁じるかを示し、その境界の外は自由に残す。
適用範囲の透明性。羅針盤があまりに整然と見えること、それ自体が一つの危険である。Nguyen の戒め(Frankenhuis ら, 2023 を通じて)がまさにここに値する。明晰さの感覚は、本物であれ想像であれ、問いを終わらせる。あまりに整えて示された方法は、まさに自らの限界を私たちが見ることを妨げうる。だから私は羅針盤の限界をはっきり残しておく。この四つの問いはすべてを解決しない。四つの独立した戒めによって較正されており、断頭台でもない。それらがあるのは一つの現象を切るためではなく、自らに立ち返って「私はここで一つの大聖堂を建てていないか」と問うためである。
8. 結び
理論を築くことは罪ではない。人を人たらしめるものの一つである。問題は、一つの現象が支えきれない建造物を、しかも自らの適用範囲について不透明なやり方で築くことだ。針ほどの入り用に大聖堂は建てない。だが本物の入り用(払いのけるべき一つの誤り、あるいは灯すべき一条の光)には、私たちは一つの慎ましい道具を負っている。
この文章が提案する道具は小さい。四つの問いと一つの較正である。ある現象に出くわしたら問え。枠組みはそれを圧縮しているか、新しい何かを言っているか、自らの適用範囲について正直か、正しい棚で探しているか。答えが弱く、しかもその弱さを反対の極(早すぎる拒絶、高すぎる閾値)と較べたあともなお弱いままなら、あなたはおそらく一つの大聖堂の前に立っている。それはしばしば、一文の観察を一文のまま残すだけで足りると見て取ることを意味する。それこそ、私たち自身の失敗が教えたことだった。
参考文献(APA 第7版)
Dalton, C. (2016). Bullshit for you; transcendence for me. A commentary on "On the reception and detection of pseudo-profound bullshit." Judgment and Decision Making, 11(1), 121-122.
Frankenhuis, W. E., Panchanathan, K., & Smaldino, P. E. (2023). Strategic ambiguity in the social sciences. Social Psychological Bulletin, 18, Article e9923. https://doi.org/10.32872/spb.9923
Haslam, N., Tse, J. S. Y., & De Deyne, S. (2021). Concept creep and psychiatrization. Frontiers in Sociology, 6, Article 806147. https://doi.org/10.3389/fsoc.2021.806147
Holth, P. (2001). The persistence of category mistakes in psychology. Behavior and Philosophy, 29, 203-219.
Pennycook, G., Cheyne, J. A., Barr, N., Koehler, D. J., & Fugelsang, J. A. (2015). On the reception and detection of pseudo-profound bullshit. Judgment and Decision Making, 10(6), 549-563. https://doi.org/10.1017/S1930297500006999
Popov, V. (2023). If God handed us the ground-truth theory of memory, how would we recognize it? [Preprint, in revision]. PsyArXiv. https://psyarxiv.com/ay5cm/
バージョンと改訂について
この文章は一つの生きたテキストである。重要な変更のひとつひとつが、ここに印を残す。
バージョン 1.1 · 初版:2026年9月2日 · 改訂:2026年9月2日。この日本語テキストはトルコ語原文(v1.2)の翻訳であり、独自のバージョン番号を持つ。トルコ語テキストのバージョン履歴を引き継ぐことはない。この改訂では三つの修正を行った。第七節の「三つの問い」を羅針盤の四つの問いに合わせた。マイケルソンとモーリーの実験に関する一文を事実に即して和らげた(何も見いだされなかったことは媒質の不在を示したのではなく、それを指し示した)。「double dipping」が Popov 自身の造語であるかのような書き方を修正した(この語は統計学で定着している)。
バージョン 1.0(2026年9月2日):トルコ語原文 v1.1 からの初訳。
翻訳について。本文の原語はトルコ語である。術語はその英語の原形を保った(duplication fallacy、dormitive virtue、theory stretching、motte-and-bailey、category mistake、concept creep、double dipping、inference ticket、guru effect、pseudo-profound bullshit)。文献は著者名と年で示した(本文では「Frankenhuis ら」「Roberts と Pashler」のように、参考文献欄では欧文の原綴りと APA 形式で記す)。本文中に外国語の直接引用はない。説明に用いた例(モリエール、ルヴェリエ、マイケルソンとモーリー、二十の扉)は、その確立した形で示した。